南相馬修道院からの便り  「人々と共に在る」


バラの香りが馥郁と漂う、ロザリオの月になりました。
美しい季節になりましたが、人間の現実はゆっくりゆっくりとしか進まないものです。
確かな歩みはゆっくり進むしかないのですね。この場にいるとそれを強く感じます。

6月に、元南相馬市長で現在は南相馬市議会議員をしておられる桜井氏のお話を伺う機会がありました。
桜井氏は、2010年1月に南相馬市の市長に就任、まる1年経った時に東日本大震災に見舞われ、
南相馬市の市長として大変な修羅場をくぐってこられた方です。

「南相馬市は、2006年に三つの町、北から鹿島町、原町、小高町が合併し、その人口は約73,000人でした。
(原町区 約48,000人、小高区 約13,500人、鹿島区 約11,500人) 震災が起きたのは合併から5年目でした。
新市長になって1年しか経過していない時で、まだ市として十分に構築されていない時でした。

2011.3.11
東京電力福島第一原子力発電所を襲った津波は、20.8メートルの高さ 津波による死者636人(内106名行方不明)
災害対策本部立ち上げ:救助活動(原町高校体育館に遺体収容所設置)

3/12
「原発が爆発したらしい」と救助活動のさなかに不確かな情報が入る。国からも東電からも何の情報なし。
「らしい」だけで動けないが、一旦、市民に屋内退避を呼びかけたが、その後も何の情報もないので、まもなく解除。(1号機水素爆発)
午後5時ごろ、テレビのニュースで爆発の映像を見る。テロップで20㎞圏内は避難するようにと。
国からも、東電からも何の情報もないまま、NHKのテロップの情報で避難を呼びかける。

3/14
3号機爆発  3号機爆発。原爆と同じプルトニウム原発なので大変心配した。

3/15
2号機爆発  テレビで30㎞圏内は屋内退避の呼びかけ。(4号機火災)
放射能災害のため、物流が途絶える。
「ニュースナイン、おはよう日本」の取材を受け、物資が入らなくなって生活が苦しくなる(食料が尽き、寒さの中、灯油もない、ガソリンがない)、
棄民のようだ
と訴え、やっと各地から支援物資が入ってきた。国の役人が来たのは3月17日、東電が来たのは3月22日。

3/17
新潟県知事から、南相馬市民の避難民を受け容れるとの連絡がある。群馬県もバス20台で迎えに来てくれた。
その時、灯油がバスで運ばれた。バスで灯油を運ぶのは違反行為ではないのか? しかし、命を優先する行為に感謝した。

3/20
調達できるだけのバスを各地に要請して、避難させる。
新潟: 11,000人  山形: 13,000人 … 63,000人の避難(自主避難も含め)
後から考えると、避難が本当に良い選択だったかどうかは疑問。関連死は3か月で250人にのぼった。
(理由:環境が変わったことによる死亡。病人を動かしたため、薬が届かなくなったためなど。)
希望を失い、あきらめることは、生きる力を失う。生業を失う、農業を、畑を失う、生きる力を失う。
生業があると、希望がある。
命を守るとは、体の命だけではない、心も守ること。
いのち=つながりでもある。
避難でバラバラに、つながりを絶たれたら生きる力も断たれ、自殺に追いやられるケースもある。
復興って何ですか?
人は一人で生きられない、誰かに支えられなければ生きていけない。
人と人とのつながりを取り戻すこと、復興を考える時に、このことを忘れてはいけない。

3/20  
市役所は避難せず残ることを決断した。「私自身の判断です」と。「公務員は今こそ使命を果たすべき」と、職員に訓示した。
東北電力も避難しないと言ったので、幸い電気は切れなかった。
避難した職員もいたが、多くは残ってくれた。残らなければならない。
公僕だから!彼らは50日間、コンクリートの床にブルーシートを敷き、毛布一枚で過ごした。 
20㎞圏内の小高は、人っこ一人いない町になった。いのちを守るため、南相馬市には女性が少なくなった。
放射線被災したある女子高校生が、「自分はもう子供が産めない体になった」と悩んでいたことに心を痛める。
このような被害をもたらした原発事故の教訓を、政府はまったくわかっていない。
再稼働どころか稼働年限を40年から60年に引き延ばそうとしている。地球を守るとは何か、考えてもらいたい。

50日間の激務にもかかわらず、公務員としての気概と使命感の塊のようなその姿勢に本当に感動しました。
少しも自分は偉いことをしてきたという感じを抱かせない、その生き方にも深く心を打たれました。
そして人ともっともっと市民の気持ちに沿った、市政がなされることを強く望んで今を生きておられます。


カリタス南相馬のベースの集会室兼食堂の壁に田中正造の言葉の額がかかっています。

田中正造は、天保2年(1841年)に、現在の栃木県佐野市小中町に誕生。
足尾銅山から流出する鉱毒事件を追及し、大正2年(1913年)亡くなるまで鉱毒問題の解決のため一生をささげた明治時代の政治家です。
鉱毒を溜めておく貯水池を作るために、一つの村が水没することになり、
彼はその村の人々と一緒に生きるために、最後まで、強制破壊当日までその村を動かなかったとのことです。
田中正造の「人々と共にある」という教訓を胸に、私たちもこの原発の被災地の方々と最期まで共に居たいと思います。

援助マリア修道会 南相馬修道院 北村令子




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