南相馬修道院からの便り 「ウサギ年は飛躍の年?!」


あれからちょうど12年、あの年も、うさぎ年でした。よく覚えているのは、
私がまだ福山暁の星学院の事務局長をしていて、
年頭の挨拶に来られた銀行の支店長さんが「うさぎ年は飛躍の年と言って、
株価も上がって景気が良くなるので期待できます。」と言われて、
そんな諺もあるのかと半信半疑だったことです。
そして、その期待は見事に外れて、大震災で景気は非常に悪く、
それどころの騒ぎでなかったのを覚えています。(写真:村上海岸の津波の爪痕)
その時あなたは何をしていましたか?という質問にもはっきり答えられるほどショックでした。

2011年3月11日午後2時過ぎに、 私は、福山の東郵便局に行きました。
福山暁の星小学校の体育館建設のための募金用の振替口座や様々な手続きを済ませたのが午後2時45分ごろでした。
学校に帰ってみたら大変なニュースが流れていました。
「わー、これは小学校の募金どころでないわ!企業もみな東北の支援に回されるでしょうから、
今すぐ、さっきの手続きをストップしてもらわなくっちゃ」と、福山東郵便局に取って返して手続きをストップしていただきました。
それから私たちの出来ることは何だろうと、話し合ったのを今でも鮮明に思い出します。

東京電力第一原子力発電所の爆発事故が起こってからのことは、皆様もニュースなど思い出されることでしょう。
私は、このニュースで広島の原爆のことを心に描きました。

放射線被害について私は個人的に知っていた肥田舜太郎先生の、内部被ばくの被害についての講演を思い出しました。
肥田舜太郎先生は、広島の原爆投下の当時、私の父と同じ広島陸軍病院第一病院に勤務されていました。
父は病院に出勤途中で爆死しましたが、先生は当日の早朝に急患で、
広島の郊外で患者の少女の診察のため被曝を免れられました。
少女の容体が落ち着いたので帰ろうとした時、
市内の方からやけどをした無残な姿の被爆者たちが次々と避難してきたので、
その手当のために何週間も足止めされました。
そこで見たことは外傷が全くない人が大やけどした人より早く亡くなったりする不思議な光景だったそうです。
そこで新型爆弾の正体を研究して内部被ばくの実態を解明され、
生涯被爆者のために尽力され、福島の原発事故のためにも大変心を痛め、
即座に福島入りをし、内部被ばくの危険性を訴えられたそうです。
私は、心はいち早く福島の人々の生活に寄り添いたい思いは持っていましたが、
学校の仕事を放り出すわけにいかず、時が来るのを待ちました。

昨年の12月24日、「小高への想いを語る集い」で、
廣畑裕子さん(小高工房代表)と西佳世子さん(にしや衣料品店)のお二人のお話がありました。
残念ながら写真を撮り忘れました。
西さんは、震災の時、伊達市の霊山(りょうぜん)里山学校に避難されたそうです。



話が少しそれますが、霊山はバスで南相馬から福島に行く途中にあって、
まさしく 霊山(れいざん)です。一度秋に行きましたが、登山もできます。(写真)
西さんは、小高で学校の制服も扱うお店をされていたそうで、
ちょうど3月は次の年度の新入生の制服を届けなければならない時期で、
学校もあちこちに避難していて、霊山から福島へ、福島から相馬へ、
南相馬へと、ご自身も避難生活をしている震災直後の大変な時期に、
地球を何周するかと思うほどの学校巡りをしたと話してくださいました。
想像したら本当によくもそれだけ動けたと感心します。大変な時期だからこそ、
新入生にとってはこの働きでどれほど力づけられたことでしょう。
新しい制服に身を包んで、厳しい生活の中にも新しい生活が始まる喜びを味わうことが出来たでしょう。
子供たちの成長の助けとなったことを想像して、深く感動し、感謝しました。

廣畑さんのお話はこの南相馬便りの中で何度も書かせていただいているので、
特に心に残ったことだけを書きます。
廣畑さんはその時には、大熊町の会社で大きな揺れと同時に、
一番心にかかっていた次男君のことを考えたそうです。
朝、自転車で高等学校に出ていった次男君。津波でどうなったか、
心配で心配で自宅のある小高の蛯沢に向けて車を走らせてもどこも自動車の渋滞!!
地理に詳しい彼女は、自動車の通れる山道(けものみち??)を選んで4時過ぎに蛯沢に着いて、
津波に襲われた痕の、呆然とするほどの光景を目にしながら、
手を合わせながら、自宅(ちょっと高台にあって家は無事)目指し、
玄関を開けるや次男君が立っていて、自分はそこにへたり込んだと。
自分は仕事人間だったが、こんなに家族を思ったことがなく、
その後、家族のための時間を取るために、お仕事を辞めたと。

また4時過ぎになると蛯沢の自宅には居ることが出来ないトラウマを抱えているとも。
次男君はその日、自転車がパンクして、
クラブの先生が自転車屋に寄るために早く帰してくれて、津波を免れたとのこと。
何が幸いするか分かりませんね!
それから2012年のある日、放射能の線量の高い小高に、一時的に自宅に入る許可が出て、
防護服を着せられ、大切なものを取って来なさいとビニール袋を持たせられ、自宅に入りました。
自宅に入るのになぜ許可が必要なのかと疑問に感じながら。
仮設生活の中では、毎日が灰色のような色のない生活が続いていました。
が、この時、自宅の庭でプランターに植えたマリーゴールドがあざやかな黄色の花をつけていました。


初めて色を感じた!! そして、ああ何と自然の営みの大きいこと!
人間の小ささを感じた。
そして街に花を植えている人(双葉屋旅館の小林友子さん)と一緒に小高駅前に花を植えることになった。
通る人が1人でも花に心を癒されるように。
そして一番近い人が笑顔でいられるようにと。
小さなことに心を込めて生きることを、自分の日々の生活で大事にしていきたいと思うと話された。
ちなみに小高工房のロゴマークには、「笑」という字が書かれています。お気づきでしょうか?

(^^♪ 小さいかごに花を入れ、寂しい人にあげたなら、
色も香りも部屋に満ち、気持ち良い日を過ごすでしょう(^^♪

今日はここまでとします。 皆様お元気でお過ごしください。

援助マリア修道会 南相馬修道院  北村令子




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