南相馬修道院からの便り。


5月号を送った日の前々日、山の方では雪が降り、朝、通勤の道々、遠い山に雪化粧を見たのに、
もう真夏日となってきました。皆様お元気でしたか?
異常気象で最速真夏日を更新していますが、気分は爽快と思いこませて前進!!

古い話になりますが、GW中のこと、パッカパッカという耳慣れない音が聞こえ、
何だろうと思ってベランダから外を見ると、お侍さんの格好をして陣羽織を着た若者が馬に乗って通り過ぎていきました。
気が付いた時は時遅しで、修道院の前を通り過ぎて後ろ姿しか見られませんでした。
周りを数人が徒歩でついて行きました。写真を撮ればよかったのに、後ろ姿になっていたので諦めました。
しばらく仕事に没頭していると、また音が聞こえてきたので外を見ると、今度は背広を着た男性が乗っていきました。
残念なことに修道院の前を通らず、すぐ大通りの方角へと通り過ぎました。
これも気づくのが遅く、時遅しで、遠くの後ろ姿しか写真に撮れませんでした。
小高のホースシェアリングのグループの活動(8月号で紹介します)なのか、本当に残念でした。
今年は野馬追が見れるかしら?


遠くにお馬さんの後ろ姿。修道院のベランダから右手の駐車場と建物が小高診療所、
左の建物が松本ボランティアセンター。連休中ボランティアの方が来られて、軽トラックが出払っていて1台も無し。



今日は小高で三重の被害を受けられた方で、南相馬市の市議会議員をしておられる方の
自費出版通信「なじょしてる」(A4紙)に載せられた記事(被災者の生の声)をご本人の了解をいただいてお届けします。

生業(なりわい)訴訟の最終意見陳述書から抜粋
(前略)私は、「命を支える食」をつくる専業農家として親子で共に時間を過ごし、協力し合える生業に誇りを感じていました。
2011年3月12日、原発事故に伴い、私は当時2歳と6歳の娘、妻と共に『生きる場』から逃げ出しました。
私は、大学時代を過ごした愛媛県を避難先に選び、再び農業に取り組み「普通の暮らし」を取り戻そうとしました。
しかし、うまくいきませんでした。
「子供たちをどう守るか」「いつになったら帰ろうか」「…」 ・・・ 
私たち夫婦はことあるごとに意見がぶつかり合うようになり、心が分断されていきました。
結局、未来に対する妻との意見は一致せず、2019年に離婚に至り、
子供たちを守るために選んだ愛媛での暮らしは崩壊しました。…(中略) 
家族が崩壊する1年前に当時中学一年生の長女はこんな作文を残しています。

【「普通の生活」。普通にご飯を食べて、普通に学校へ行って、普通に帰ってくる。本当にごく普通の生活。
そんな生活が、私はうらやましい。普通の人ならもっと上を目指すだろう。
でも、もう私には普通の生活を目指すことさえできない。
あの日、私の普通の生活は消えた。そして楽しみまでも消えていった。
でもその代わりに「東日本大震災、3.11」という言葉が生まれた。
「福島第一原発事故」というとても耳障りの悪い言葉と共に・・・(中略)


「福島第一原発事故」。この出来事がすべてを変えた。地震と津波。それだけでも被害が重大である。
でもこの事故には、それらと違う苦しみが隠されていた。「生き地獄」である。
この事故を何年も何年も引きずり、苦しめられ、普通の生活に戻れない。
それが「生き地獄」である。放射能について何も知らなかった私が、
放射能というものの恐怖を、初めて知った出来事だった。(以下略)】

今回の裁判は当時の科学的知見と規制の整合性・妥当性が主としての争点になっているものです。
しかし、私たち避難者がこの裁判を起こした理由は、別のところにあります。
私たち避難者は、苦しみと怒りの声を上げました。
例えば、「経済的にとても苦しい」「家族みんなで暮らしたい」「期待しても絶望だけ」
「国に避難する権利を認めてほしい」「もっと真摯に向き合ってほしい」「3.11原発事故の真相を言ってほしい」
「国は守ってなんかくれない」「やはり黙っていられない」などです。(中略)

先日、13歳の原告である次女に「裁判の事どう思ってる。(中略)どう終わったらいい?」と聞くと、
「国が皆さんのために上告を諦めますというのはダメだよ。国は自分の責任を認めて、ちゃんと謝って欲しい。
そして最後には、避難している人も、東電も、国の人も、みんなに幸せになって欲しい。」と答えました。
私は反抗期の娘がそんなふうに思っていることに驚きました。

そんな次女は、微生物学者になって、夢は「微生物によって放射性物質を取り除くこと」と言います。
ちなみに長女は、臨床心理士になりたいと言います。
そして将来の夢は、「生きていくのがつらいという人の話を聞いて、生きる希望を与えること」と言います。

私は、そんなことを考えている「夢見る少女たち」を頼もしく思うとともに、
そんな思いを、挫くような大人には、決してなるまいと思います。

痛みを受けた若者たちは、様々な疑問を感じつつ、まともな社会を望んでいます。
認めること、誤ること、許すこと、助け合うこと。どうしたら事故後の救いになれたのか。

私たち大人は、痛みを受けた子ども達の思いを道しるべに答えを探し、
「人の痛みから眼を背け、声を上げても放置する。
そんな社会を『融和の世界』に変えた転換点。
それが福島第一原発事故だった」という過去を、一刻も早く創らなくてはなりません。

記事はまだ続き、訴訟の中身については、次の機会に譲り、今回は被災者のある方の、
現在の思いをお伝えしたかったのです。

今日はここまでとします。皆様お元気で!!

援助マリア修道会南相馬修道院  北村令子




TOP援助マリア会とは援助マリア会の霊性援助マリア信徒の会日本の援助マリア会世界の援助マリア会