南相馬修道院からの便り。


5月になると木々の緑、色とりどりの花々で美しい自然界を感謝と感嘆の思いで眺めます。
その光景にどれだけ心を癒されることでしょう。

最近知ったことですが、こちらの自然界は手放しで美しいと感嘆できないことを。
私たちが毎日通勤する通路の小高川を越えて、
同慶寺の近くの交差点の標識に「懸けの森登山口(かけのもりとざんぐち)」への道が示されていて、
いつか行ってみたいなと思いながら、この冬のある日、そのルートを通ってみて、
「ああここから入ればいいんだな、でも今は寒いから暖かくなったら、いつか行こうね!」と言って、
その日は通り過ぎて大回りをして帰院しました。ところが、2月28日の福島民報に懸けの森についての記事が載っていました。
懸けの森(標高536m)は古くから山岳信仰の霊場で、地元の人ばかりでなく、
多くの人々に愛され、登山としてだけでなく、憩いの森として、
また手ごろなハイキングコースとして大変よく利用されてきたとのことですが、
東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故によって被ばくしたこの山は、里山再生事業の実施を求めていますが、
放射線量の高い場所もあるにもかかわらず、除染が認められないで、
11年間放置された山に入ることは事実上無理なようでした。


ということで私たちの希望は断たれた形になってしまいました。
山林の除染はされないままですから、浜通りでは多くの山は入ることができない場所になっています。
そして、林業で生活しておられた方々、森の恵みに支えられていた人々の生活は
原発事故によって一変してしまいました。
浪江町の津島地域の木は津島木と津島の名がつけられた木材が、
また田村市ではシイタケ栽培のための上質の原木の出荷が現在も止まったままだとか(福島民報1月7日)。
2009年の出荷原木本数は,225,000本余り。最盛期には900,000本を超えていたのが現在はゼロ。
10年が過ぎた現在も130~200ベクレルと、国が定めた原木として使用できる指標値50ベクレルを上回り出荷できないままです。
こうして原発事故は、多くの人々の生活手段を奪ってしまったのです。
その人々の人生を根底から覆し、狂わせてしまったのです。
浜通り、南相馬市が孤独死・自死の数が全国でも突出して多いのも頷けると思います。


3.11に先立って行われた「いのちの行進(4月号)」の時、
村上霊園の上にある貴布根神社(小高神社の近くのは貴船神社(1月号))に上りました。
そこは相馬藩の海城の城跡ですが、建築途中に火事になって完成せず、縁起が良くないと別の場所に築城して、
お城として存在していないのですが、城跡と言われています。その神社の境内に一本の松があります。
奇妙なことにその松は根っこのところから枝が出ていて、普通の松のような幹がありません。
同慶寺の徳雲住職の説明によると、この松は生え出たちょうどその時に強い放射線を浴びて、
このようになったのではないかと言われました。

このようなことが植物に起こるとしたら、そのような山や林を駆け回っている動物に、
そして人間に影響がないとは言えないと思います。
この地域の人々は口にこそ出されませんが、やはり心のどこかには不安を抱えておられるのではないかと思います。
ここでは新しい商品開発をする時、必ずその原材料の放射線の線量を測って、
合格した物だけが使われるので安全だと言えます。

いろんな学者がいろんな説を唱えて何を信じてよいのか分かりません。
山に入るとあまり他のところでは見られない現象:枝のつき方がおかしい木々など
それでも植物は自分の細胞の中でそれを消化して逞しく育っていくことができているので、
動物にも同じことが言えるのではないか。と。
除染されていない山を駆け巡っている動物が必ずしも短命ではないし、内臓などの異常も起こしてもいない。
動物にも異物を自己同化する力がある。だから、人間も・・・と。
福島県の子供の甲状腺がんの発生率が高いのは、原発事故によって一斉の検査が行われたので(検査数が多いから)、
全国平均より高くなっているだけだと結論付けているのに私は疑問を持っている者です。

近くの団地の男性が、急性白血病で亡くなったのも気になりますが、
原発事故による放射線のためだとの因果関係ははっきりしないので責任を問うこともできません。
その方は小高に比較的早く帰って、野菜作りをしておられました。
収穫された野菜は線量を測って頂いておられたと思いますが、
土を耕す作業から他の人より多く放射線を浴びておられたのではないかと、素人判断ですが疑っています。
とっても良い方で、私たちのような外から来た者にも親切にかかわってくださる方でしたから悔しいのです。

修道院の近所の喫茶店の店員さんで、被災者の方と結婚しておられる方が、
「主人が3月になると、不安定になるんですよ、お兄さんと祖父母を津波で亡くしたんです。
祖父母が心配でお兄さんが祖父母を探しに家に戻って、一緒に流されたんです」と言っておられました。
何年経っても、あの時に戻ってしまうんだそうです。
今回の3.16の地震の時もそうです。相馬の男性の方が、10日間はぐちゃぐちゃの家具の中で動けなかった。
屋根や壁の応急処置もできないまま。

私が個人的にかかわっている目の不自由なご婦人は、当日高台にある病院勤務で雑務をしていて、
地震は何とか無事だったが、突然、原発のための緊急避難指示のため、
患者さんをどこの病院に引き受けてもらえるか問い合わせ、
一人一人の名前、生年月日、病状、お薬などと行き先を書いた紙を準備して、首にかけさせて、
バスに乗せるまで修羅場のようだったと。
この方は過労のためだと思いますが、仮設住宅で突然視力を失われました。

またある方は、地震の後、食料調達にスーパーに行った先で、緊急避難と言われ、
そのままバスに乗せられたと。ある方は、同じように急に何も持たず、着の身着のままでバスに乗せられて、
新潟まで行って、そこの避難所がいっぱいで、転々と…行きついたところが島根だったと。
福岡だったという人もあります。本当に大変な逃避行を経験させられた方がどんなに多いことか。 
私は、避難がこんなに大変だったことを、ここに来てそのお話を聞くまで知りませんでした。
そんな報道はあまりされなかったように思います。

今日はここまで。来月は1カ月ほど留守をしますので、お休みします。

援助マリア修道会南相馬修道院  北村令子




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